湯気が部屋を満たしてゆく。
フレアと零、ふたりは通常は客が入ることのできない銀行の奥にある小室、パントリーでだんらんを楽しんでいた。来客用の応接セットや調理器具を備えた部屋であり、押し入った時の警備システムの一環として電気が落とされていたものの、アンドロイドに頼むとすんなり使えるようになった。まぁ防犯カメラに比べれば、強盗に譲歩する材料としては可愛いものだろうなと彼は複雑な気持ちになった。
「うん、お菓子があって良かった」
お茶請けとしてクッキーを渡す。
「レイは何が飲みたい?」
零の明るさも手伝って、ほんの少しの間にフレアは彼女を名前で呼ぶようになっていた。
「うーん」
少女は悩む。おそらく滅多に好きな飲み物を選ばせてもらっていないのだ。
コーヒーに紅茶、ココアに御影茶。
目移りしていると見える。
「よーし、じゃあ俺が決めちゃおう」
「えっ、なになに!?」
すっかり打ち解けたのか、零は年齢以上に子供っぽく見えた。
幼いのではなく、本来の明るさが表れたに違いない。
無邪気で、ケラケラと笑い、物怖じせず人と関わろうとする。
天真爛漫。
それが本当の零なのだとフレアは理解した。
「当ててごらん?」
「えー、なんだろ?」
「ヒントはレイがいつもは一番飲めないもの!」
しばし考えて勢いよく応える。
「コーヒー!」
「大・正・解!!」
「ええっ、ウソでしょ!」
「ホントさぁ。好きなだけ飲んじゃえ」
「眠れなくなるよ?」
「今日は徹夜です」
大きな笑い声が人気のない廊下に響いた。
待ちかねていた湯が沸いた。
フレアはさっそくインスタントコーヒーを作ろうとする。
「あっ、ちょーっと待った!」
「なに?」
「私が作ります」
どうだと胸を張るように名乗り出る。
「おいおい。出来るの?」
「実はけっこー得意なんだよ?」
「ああ、お父さんに作ってあげてるとか?」
「そのとーり!」
「で、こっそり自分にも作ってるんだ」
「もちろん!」
優しいながらもいじわるな笑みがこぼれる。
しまった、と零は気づいた
「もう!」
「ハハッ!」
何年ぶりだろう。
心から笑ったのは。
ひとり、またひとりと家族を失う中で、フレアの心は砕けていった。
それがこのひとときに欠片が集い、再び輝いている。
フレアは零との数奇な出会いに、神に心から感謝した。
「はい、どうぞ!」
ぐいとコーヒーが手渡された。
青年はクンクンと香りを確かめる。
「砂糖をたくさん入れたな?」
クスクスと笑って答える。
「はい正解。つまんないの」
「いたずらっこめ」
「違うよー。お兄ちゃん、好きかなぁと思っただけ」
お兄ちゃん。
何気ない一言がフレアの時間を止めた。
末っ子である自分が言われたことがない、しかし日常的に口にしていた言葉だった。
「あっ」
零が気づく。
「ご、ごめんなさい……」
何か傷つきやすい部分に触れてしまった、入ってはいけないとこまで踏みいったのだ――そう零が感じているであろうことをフレアは見てとった。
何が悪いものか。
むしろ。
「もう一度、言ってくれるかい?」
零はその言葉にぽかんとし、少ししてから言う。
「お兄ちゃん」
こそばゆい空気がふたりの間に流れる。
ふたりとも目を合わせられなかったが、先に零は耐えられなくなったようだ。
「さ、さぁ。どうぞ! ググッと飲んでください!」
「どこで覚えた。そんな言葉」
ごまかすように、同時にふたりは飲もうとする。
だが。
「動くんじゃねぇ」
冷徹な銃口が現実を突きつけた。
静寂。
ただ静寂があった。
永遠とも思えるそれを破ったのは、同じく生み出した者だった。
「コップを置け」
零に向けられた無慈悲な銃口を恐れ、フレアはマグカップを置く。
一方、恐怖のあまりふるえが止まらない少女は手元から落とす。
割れた陶器が散らばり、足元で黒い液体が広がってゆく。
「飲め」
バーンが促すと、零の呼吸が早くなってゆく。
「兄貴――」
「お前だけなんだ」
「え?」
「もうお前しかいない。失いたくねぇ」
容赦ない長兄の目が牙を剥く。
「ガキ。飲むんだよ」
「ま、まさか。兄貴はレイが毒を盛ってるとでも?」
「いや?」
「じゃあなんだよ!」
「言っただろ。納得のためさ」
「なんだよそれ!」
「次に口をひらけばフレア。お前の腕を折る」
「……!」
張り詰めた空気が小さな部屋を割れんばかりにする。
零が動いた。
震えながらフレアに近づき、マグカップを手に取る。
口元に持ってゆき、唇をつける。
未だ手元が定まらず、なかなか口にしない。
「10・9・8」
カウントダウンが始まり、 これ以上ないほど弟の目が見開かれる。
少女の息遣いがさらに大きくなってゆく。
「4・3――」
ごくん。
喉が鳴る。
ごほごほと咳き込む。
「全部だ」
冷たく言い放たれて、零は苦しげに、必死に飲み続けた。
苦痛にまみれた大粒の涙が、美しかったものを汚してゆく。
マグカップが下ろされるが、
「口を開けろ」
バーンは手を緩めずに、哀れな口腔を覗き込んで確認する。
「カップを逆さにしろ」
小さな手が言われるままに空の器を証明する。
「なぜすぐに飲まなかった?」
ひっくとすすり泣きながら、か細い声が答える。
「――ね、ねこ舌っ! なんでず……!」
限界だった。
「……満足かよ、兄貴」
バーンは思案すると悪びれもせず言い放つ。
ああ、
納得した。
そこからフレアは記憶がない。
ただ目の前が真っ赤に染まった。。
そして、ふと気づけばバーンの胸ぐらを掴んでいた。兄の顔は歪むほど殴られており、自身の血ぬれた拳がそれを行ったのは明らかだった。
「ごほっ……!」
我に返ったフレアは取り乱す。
「ああっ! お、俺……!」
「安心したぜ……お前ァ、気が弱えからよ……」
ニヤリと笑うと、血に染まって固まった弟の手を引き剥がして、バーンはその場を去ろうとする。
「兄貴、俺……」
「何度でもやるぞ。お前のためならな」
嫌なら殺せ――そう言い残して彼は広間に戻っていった。
嵐は去った。
大きな罪悪感を残して。
しかし大きな風雨は時として恵みも運んでくるものだ。
「レイ」
そっと肩に手を添える。
「水で口をすすぐんだ。火傷になっちゃうから」
彼は、兄に成った。