夜の帷がおりた銀行の廊下を、フレアはおっかなびっくり巡回していた。
彼は大きくがっしりとした青年ではあったが、その外見に反して、内面は子鹿のように臆病である。照明が全て落されているため、真っ暗な廊下で小心者が頼りにできるのは、手の中の非常用ライトだけだった。
そう。照明が落とされた、のだ。
フレアは兄貴分のバーンと銀行強盗の真っ最中であった。
もっとも本当の目的は金銭ではない。自分達を人間として扱って欲しいと世間に訴えたい、ただそれだけなのだ。
しかしたとえそれが極寒の天険を越えての命がけの行為であり、また正義に基づいていても、手段に犯罪を用いた事を世間は許さないだろう。
それで構わない。
同じ境遇の人々が救われるきっかけになれるのであれば、人生を捧げるに足るはずだと彼に迷いはない。
それでも、心を占めるのは銀行に押し入った時のことだった。理不尽な暴力で平和が崩された瞬間の人々の顔は、死ぬまで忘れられないだろうとフレアは苦々しく反芻した――
数時間前。
兄弟は何食わぬ顔で白昼の銀行に入ると、左腕に仕込まれたショットガンで手早く行内の人間を制圧し、窓口のアンドロイドに身代金を要求した。
フレアとバーン、二人の出身地である北の大国ゴドウィンに比べれば、同じ三大強国でもここ南のスターメドウは平和ボケと言えた。仕込み銃をちらつかせてから行内全ての客が現実を理解するまで30秒もかかったことから、スターメドウでは部分的にでもサイボーグ化した者の犯罪が、とても珍しいであろうことが容易に見て取れた。
一方、女性型の受付アンドロイドは人間の愚鈍さとは対照的に、瞬時に値踏みを済ませて地元警察に通報していた。
要求額・1億グラス。
行内の客・10人。
アンドロイドが弾き出した損害保険金額と想定被害の収支は、客が全員殺害されるケースでも人命の方がはるかに軽いことを無機質に弾き出した。通報と同時に銀行のシャッターというシャッターは下され、通信は遮断され、広間以外の照明も落ち、バーンとフレア、および不運な10人の客たちは、かくして銀行という隔絶空間に閉じ込められたのだった。
――ここまでは兄貴の計画通りだ。
唯一の拠り所としてきたバーンの頼もしさを思い出しながら、フレアは自身を鼓舞する。
どんな時だって兄貴は正しかった。
いつも俺を守ってくれた。
最期くらい俺も役に立ちたい――
受付の広間で人質を見張るバーンのため、フレアは行内に他に誰かいないか何度目かの巡回の役目を果たす。
客用の男子トイレ、次に女子トイレへ。
どの個室にも人影がないことを確認すると、兄貴分の待つ広間に戻ろうとした。
その時だった。
トイレ前の廊下の何処かで、もぞりと蠢くものを目端に捉えた。
早鐘を打つ心臓を抑えながら、慎重に、慎重に。
彼はその”何か”を確認しようとする。
手の中のライトをトイレの入口からすぐそばの廊下の突き当たりに、そしてトイレ前にある待合用のベンチへ向けてゆく。
フレアの手がピタリと止まる。
居た。
照明が当てられているのは、目を閉じていない限りそれも気づいているはずだ。
みじろぎ一つせず身体を丸めたそれは、まだ自分が見つかっていない、と、懸命に思い込もうとするようにベンチの下に隠れていた。
じっと目を凝らすと時おり呼吸で肩が動いている。小さな空間にも潜める体躯は明らかに子供のものだ。驚かせないようフレアはそっと声をかける。
「お嬢ちゃん。何もしないから出ておいで」
小さな声ではあったが、少女はビクンと小さな身体をこわばらせた。
「大丈夫だから。ゆっくりでいいから、出てきてくれるかい?」
すぐには反応がなかったものの、フレアの優しげな声色に警戒心を緩めたのか、少女はゆっくりとベンチの下からまろび出ててきた。
おそるおそる立ち上がった彼女の身長は驚くほど小さかった。足下を照らす反射光が、ぼうっと浮かび上がらせた年端も行かない少女の姿は、成熟したフレアの長身とは対照的である。
眩しくないようライトの明かりを弱め、足下からゆっくりと顔に向けてライトを上げてゆき、胸元のあたりを照らして少女の顔を確認する。
瞬間、フレアははっと息を飲んだ。
これが海か、と彼は思った。
青年は一度も海を目にしたことが無かったが、未だ見ぬ大洋を体感させるだけの美がそこにはあった。
涙をたたえた瞳は南方原産の青海石を、陽光にかざしたときに得られる水面のような青であり、そこから長く整った睫毛の海岸線を経てつながる素肌は、うわさに聞く穢れなき浜を彷彿とさせた。その白い肌に差すほほの赤みを伝って横髪から頭髪に目をやると、今度は故郷の懐かしさが現れた。むかし小麦畑で眺めていた黄金色が、一面に広がりながら暗闇の中で淡い輝きを放ち、彼の郷愁を誘った。
そしてフレアははっと我に返った。
目を奪われていた少女の髪は無造作に乱れており、とっさに隠れたであろうことが察せられて胸を痛めた。
自分こそが、まさに元凶なのだから。
一拍おくと、自分の仕事を全うするため改めて尋ねる。
「君、名前は?」
どんなに優しく話しかけても、肩を震わせ、少女は固まったままである。なんとか緊張をほぐそうと、フレアはかがんで少女の目線の高さに合わせると、ポケットからハンカチを差し出した。少女はきょとんとしていたが、ややあって、おずおずと受け取ると涙を拭った。
「ごめんね。本当に何もしないから。名前だけ教えてもらえるかな?」
「……」
「わかった。じゃあとりあえず、一緒に広間の方に行こう?」
無言のままの少女にうながすと、コクンとうなずいて歩き出した。フレアも後ろから続く。
それにしても、と彼は思った。
自分は何度も確認して、広間以外だれもいないことを確認したはずだ。
小柄とはいえ、そう何度も見落とすだろうか?
「美代零」
「え?」
気づくと少女はフレアを見つめていた。
「私、美代零です」
不意な声がけに疑念は霧散して、代わりに彼の心は警戒を解いてくれたことへの感謝で満たされる。
「――そっか。ありがとう、レイちゃん」
コツコツと二人の足音だけがこだました。